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2026/09/26

里親家庭で暮らし、いま自分が里親に

柿本加純さん


――最初に、ご自身の紹介をお願いします。
 私は今、家族5人で暮らしていて、1歳の里子がいます。昨年の10月に家に来ました。それまでは、小さい子が家にいないことがないぐらい、一時保護やショートステイで、日々お子さんをお預かりしていました。
 私の家のすぐ隣がファミリーホームです。このファミリーホームの里親2人が、私の元里親です。ここに今は男の子が4人います。私もこの男の子たちのことは家族だと思って暮らしています。

――里親になぜなろうと思ったのかを、まず、うかがえますか?
 私は里子として、6歳のころから里親家庭で暮らし始め、18歳を過ぎ、大学生の4年間も措置は外れましたが、里親宅に住まわせてもらいました。大学卒業後は東京で就職しましたが、結婚して子育てをするときに、私はどこで過ごしたいかなって考えました。そして自分の安心できる場所というのが、やっぱり、私を育ててくれた里親夫婦のところでしたので、その後、夫婦でここに引っ越してきました。
 夫は私と出会うまでは、里親とか里子を知りませんでしたが、子どもたちの手が離れたら、里親になろうって二人で話していました。でも子どもたちが小さいうちのほうが、里親家庭が私たち家族にとっての普通であるということを受け入れられるかもしれないと思い、この段階で里親になりました。

里親家庭で暮らし始めて

――ご自身が里親家庭で暮らし始めたころを振り返ってみて、どうですか?
 私は母と2人暮らしで、近くにおばあちゃんが暮らしていて、私の保育園のお迎えにたまに来てくれることもあるような環境でした。
 6歳のときでした。小学校から帰ってきて、今日はおばあちゃんが家にいる日だと思ったら、そのおばあちゃんが泣いていました。どうして泣いているのかなと思ったら、おばあちゃんがいっしょに行こうと言うので、タクシーに乗ったら、児童相談所に着きました。そして説明もないまま、おばあちゃんはごめんね、ごめんねって泣きながらバイバイっと繰り返しながら、ひとり帰っていきました。
 なんかいつもの託児所とかに預けられる雰囲気ではないなっていうのはわかったのですが、まあ、待っとったら迎えに来るかなと思いながら、児童相談所の一時保護所にいました。
 それから1か月ぐらいして、児童相談所の職員が、「行き先が決まりました。でも、他の児童相談所の子たちには何も言わないでね」って言っていたので、どこに行くのかなと思いながら待っていたら、私服に着替えていいよって言われました。着替えたら、知らないおじさんが迎えに来たのです。そして、おじさんの車に乗ってそのおじさんの家に着きました。
 それが里親との出会いです。通常は、里親家庭に行く前に、里親と子どもとの交流があるのですが、交流とかがあったわけではないと、私からしてみれば思っていました。でも私が大きくなってから、私の里親夫婦は一時保護所に私を見に来ていたことを聞きました。
 私は、突然知らないおじさんが来て、そのおじさんとおばさんといっしょに、ご飯を食べたりとかして、この人たち私のなに?って、ずっと思っていたんだと思います。私自身は、母が私を迎えに来る場所がわからないのではないか、というのを心配していましたが、ここに来ても、母は私がどこにいるのかはわかるというのは里親から聞いていました。
 そして、里親家庭に来て1年後に、また母と暮らすようになりました。
 そのときは、あまり深く考えずに母との暮らしが再開しました。そのときが2年生で、3年生の途中でまた、一時保護所に行くことになりました。そこで、児童相談所の職員に、また母と暮らせないことが起きてしまったと言われて、今のところ選択肢が2つあると提案されました。
 少しの間私もいっしょに暮らしていた、母が昔結婚していた人と、私とは父が違うけれどもお兄ちゃん、その2人と暮らしますか? もしくは里親さんのところで暮らしますか? どちらにしますか、と聞かれました。そこで私は母と暮らしたいけど、暮らせないんだったら、あの同じ里親さんのところに行きたいですって言いました。
 小学校3年生の途中で、自分で決めました。児童相談所に行ったのは自分で決めたことではないけれども、どっちがいいですかって聞かれて、里親ですって言ったのは私です。
――前に少しですがいっしょに暮らして、里親に対して、何か気持ちがあったとか。
 いや、違います。えっと、なんか自分の里親に対してこう言うのは申し訳ないですけれど、それよりもそれしか選択肢がなかったのです。
 3年生の秋ぐらいに、里親さんは、また一時保護所に迎えに来てくれました。
 でも最初は、またここでは1年暮らすぐらいかなと思っていたら、その後、ずっと暮らすことになりました。
――里親さんとの関係はどうでしたか?
 私は、徐々に家族になっていった感じです。
 私が来たとき、ここはファミリーホームではなく、里親家庭でした。里親夫婦と子ども1人と私でした。その子どもを、私はお姉ちゃんと言っています。私より10歳年上で、私が小3のとき高3でした。
 お姉ちゃんは、受験生でした。当時、家にピアノがあるから、私は遊びで弾いたりしていました。以前、小1のときに来たときはそれで別によかったのですが、今回3年生になってきたときにも同じように、あ、久しぶりにここに来た、みたいな感じでピアノを弾いていたら、「お姉ちゃんはお勉強があるけん、ピアノは弾かないように」って言われてムッとしました。そうか、やっぱりよそ者なんだみたいな気持ちでした。本当は、そうじゃないのに、全部そういうふうに受け止めていて、自分の娘が1番優先なんだなって思ったりしていました。
 お姉ちゃんは次の年は予備校に入って、その次の年から東京の大学に行って、それからは家で暮らしたことはないのでいっしょに暮らしたのは、小学校3年生と4年生の間なんですよね。でも、その間もお姉ちゃんがいてよかったなと思います。私だけに関心が集中しないこと、普通の親子を間近で見れたこと、姉妹としての仲間意識ができたことなどからです。
 徐々に家族になっていったと初めに言いましたが、その過程の一つに、里親は、してはいけないことや、嬉しいことについては、お姉ちゃんに対して言うことも、私に対して言うことも同じでした。私がお姉ちゃんに対して、やめてほしいって思うことを里親に言ったら、我慢しなさいとかではなくて、ちゃんとお姉ちゃんに話してくれました。そういうことの積み重ねで、私も仲間なんだなというような気持ちになっていったと思います。

自分の気持ちを伝える

――中学生、高校生になってからは、どうでしたか?
 家族になっていくにあたって、1番大きなできごとは、私が高校2年生で海外に1年間留学したことでした。
 中学生のときは反抗期で、勉強することで、いろんな人を見返してきたっていうようなところがあったので、成績はまあ、まあ、よかったほうです。
 お姉ちゃんは東京の大学に行きました。でも、私は行けるはずありません。環境が、生まれた家が違うだけで、同じように努力をしていても同じような飛躍の仕方ができない。誰のお金で、東京で生活ができているの、それをもし私がしようと思ったら、どんだけバイトせないかんと。
 その憤りに関しては、今は言葉で説明できるけれども、中学生の自分としては、ただムカムカしているしかありませんでした。なんかいろいろなことに本当にイライラしていて、のんきな大人ばっかりだ、里子になったこともないくせにとか思っていて。進路に関しても、里親さんは勉強頑張れる子だから頑張ったらと言うけれども、その後の人生、私が背負うってわかって言っとうとかいなと思い、結局、勉強をやめてしまった時期がありました。
 それで学校でも全然勉強しないような人たちとも遊ぶようになって、学校は行っていたけれど、いままでの私の生活からは、ガラッと変わっていきました。行き先も伝えずに遊びに行くし、夜でも遊びに行くし、という感じになったんですよね。
 でも、そのときに私の里親は怒鳴って怒るとかは絶対なくて、「ちょっと、かすみさんいいですか?」とか言って呼ばれました。そして、「ちょっと座ってください」みたいな感じで、話が始まったのです。里親のお母さんのほうは書記みたいに、ノートをとっていました。
 それで何が不満なのかとか、なんで遊びに行くのかとか、それを心配していることはわかっているのかとか、いろいろ言われたのです。そこで、私の気持ちとかがわからないのに、他の子と同じようなアドバイスをしてくるのが嫌だっていうのを、やっと初めて里親に言えたのです。
 行きたい高校があるし、勉強したいなって思う気持ちはある。けれども、進学校に進んでも、その当時って、今の学生支援機構みたいな奨学金制度はなかったから、大学に行きたかったら、18歳で里子としての措置が終わった以降は自分で家を探して一人暮らしをして、学費を稼いで大学に行くか、もしくは母のところで暮らし始めて、バイトをして大学にいくとか、そのぐらいしか自分で考えられるものがない。そういうことをわかって、私の高校選びのアドバイスをしているのって、聞いたのです。
 そうしたら、私がそこまで考えていることを知らなかったと言ってくれたのです。そういうふうに大人が自分の考えがそこまで及んでなかったっていうのを認めることにも、すごく驚きました。
 それによって、自分の気持ちをわかってもらえたんだなっていうことがありました。
 里親さんは、「そこまで心配して、何もできなくなっていたっていうことはわからなかった。だけど、今はそこまでの心配せんでいいけん。今自分が1番望むことをしなさい」って言ってくれました。そして「その後起こる問題はそのときにいっしょに考える。絶対なんとかなる。この家を出たからっていって、里親と里子の関係は終わるかもしれないけれど、人間関係は続くよ。もう出会ってしまっとるけん、続くとよ」って言われました。
 「あー、そうなんだ」。
 他人だけれども、一生懸命思ってくれているんだなっていうのが、その中三のときにわかりました。そして、私が志望校に合格したら、私の次に喜んでくれるのはこの人たちだなって思いました。
 そのあとは、勉強も頑張りました。自分がやりたいことをやるっていうことそのものが、この里親たちの喜びであるっていうのがわかったからです。
――そのあとの高校の生活は、どのようなものでしたか?
 高校に入学したあとも、やりたいことばっかりやっていました。入学した高校は勉強ができる人たちが多い学校で、私は中学のときは上のほう成績だったのに、高校では中の下ぐらいになってしまい、それで里親に心配をかけていました。
 あと友だちと遊びに行くことになっても高校生だから、中学生と違って、カラオケ行ったりとか、お金がかかったりするじゃないですか。でも、お金ちょうだいって言えなかったから、それでイライラが溜まったりもしました。友だちといっしょにおしゃべりするぐらいしか、私にはありませんでした。そして、高校生だから、バスや電車に乗って行くようなところで遊ぶから、帰って来るのも遅くなったりしました。まだ高1の女子ですから、すごく心配していたみたいです。
 今は、それは心配だよねってわかるんですけれども、その当時はなんか私を縛ろうとしているっていうふうに捉えていました。しかもそれは里親としての責任で、人の子を預かっているから、危ない目に遭わせたりしたら、自分の責任が問われるっていう気持ちから心配をしているって思っていたんですよね。
 だから、自分の立場を守るために心配しているだけだと思っていました。それで、ちょっと衝突するようなことが増えて、もうこのままここにいたら、自分はダメになってしまう、どんどん自分で自分を嫌いになりそうな感覚がありました。
 そこで学校の先生に相談したら、試験はむずかしいけれど、留学という方法があることを教えてくれました。それいいかもって思い、里親に留学したいと言いました。そうしたら、すごい喜んでくれました。

留学の日々で変わったこと

――そして、ドイツに留学したのですね。そこでの生活は、いかがでしたか。
 高二の夏に出発して、ドイツに1年留学しました。あのドイツでの1年間で、私が里子かどうかは何にも関係ないという、生まれて初めての経験をしました。ひとりの日本人としてホームステイをして、学校にも通って。
 日本にいるときには、いつもどこかで、この人はかわいそうな子だから、仕方がないね、みたいな目にさらされていた気がしていたんですけれども、全然そんなことはありませんでした。伸び伸びした感じで、自分自身をきちんと評価してもらっているというか、あの子はお母さんがおらんのに勉強頑張って偉いねとかではなくって、普通に認めてくれるし、普通に叱られるし、みたいな感じでした。
 そんななかでも私は、日本の里親家庭に写真を送ったり手紙を送ったりしていました。そして里親から来た返事というのが、私の体験を全部喜んでいる内容で、「そんな経験をしたんだね、よかったね」とか、「どんな成長をして帰ってくるのか楽しみです」とか。いつも私を励ますし、私の喜びをいっしょに喜んでくれていていました。
 私は実の母にも同じように、写真と手紙を送っていました。
 実の母とは小学校1年生のときから、手紙のやり取りはずっとありました。小学校の高学年ぐらいからは、実際に会う交流が復活して、中学生になるとお泊りが始まって、高校生ぐらいになると、自由に会いに行っていいことになりました。
 私は、それはよかったと思っています。母にしか言えない話もあるし、母には言えないけど、里親さんには言える話もある。心の拠り所が、いっぱいあるっていうのは、よかったなと思うんですよね。
 それに加えて私の里親さんは、私の母のことを1回も悪く言ったことないです。母と里親さんもいい関係を築いてくれました。そうではない場合もあることを知ってから、その点ですごく恵まれていたなって思います。
 その実の母の手紙の返事の内容が、私には全然関係なくて、自分の愚痴や、早く帰ってきてこの話を聞いてほしいとかを手紙に書いてきていました。
 かつて、あるときから、私はもう母の母ぐらいに成長したなと思ったことがあったのですが、それは留学している間に確信に変わりました。母も好きだけど、母のところで生活するのはやっぱり子どもとしてはむずかしい、と。
 ドイツのホストファミリーの人たちとの関係もよくて楽しく過ごしたのですが、留学中は楽しいことばかりではなく、きついこともいろいろありました。そのときに、いつでも手紙などで支えてくれていた里親の存在に感謝です。
 そして、帰ってくるころには、それが愛っていうものなのだろうなとわかってきたんですよね。心配したり、いろいろ言ったりするのも、里親としての責任ということだけではなくって、私に対する愛情だと。
 外国の人って自分の愛情を言葉にするじゃないですか。その愛に関する言葉をいっぱい聞いてきたから、私が帰国してから、里親たちが私に言うこと、やることいろいろが、あ、これは言葉にすると愛だって、思えるようになったのです。
 このように、徐々に徐々に家族になっていったけれども、私にとっての大きな転機は、この1年間の海外留学でした。そこから帰ってきてからは、私たちは愛で繋がった、家族になろうとしてなった家族だと、自信を持って思えるようになりました。
――1年間の留学は、本当に大きなことだったのですね。
 1年間の手紙のやり取りは、感情的に言い合う言葉ではなくて、送った言葉が1週間後に返事として文章で来るというのがよかったなって思います。
 あと、言葉を受け取る側の私の気持ちも変わりました。心配をされるのはあたりまえではないのに、今までは心配されるのが当然だったから、うざったいと感じていたけど、心配してくれる人がいるのはありがたいことなのだというのがわかりましたね。
 帰国後は関係性が、すごく変わりました。あの留学期間に学んだことは語学だけではありませんでした。気持ちは言わないと、人には見えない。気持ちは目には見えないから言葉にしないと伝わらないことが一番の学びだったかなと思うのです。
 人の気持ちはわからなくて当然って思うようになり、「なんでわかってくれんと」というような怒りが、まずなくなりましたし、わかってほしいと思うんだったら、相手がわかる言葉できちんと伝えようって思うようになりました。自分の要望や希望も言葉にして伝えようと。
 私の気持ちが叶わなくても、それは理由があって無理なんだということが納得できれば、別に何ともないことだから、と思うことで、気持ちよく言葉に表すっていうことができるようになったのです。
 また私が言葉によって希望を伝えるならば、それに応えようという里親たちの姿勢もとても心強かったです。それで、私は本当は大学に行きたいと言うことができたし、大学に行くとするならば、この家で暮らしたいから、ほかのどこでもなくて、ここで暮らしていいですかということも言うことができました。
 私の里親さんは幼稚園の園長先生だったので、子どもたちとか、保護者たちが常にまわりにいるような状況でした。
 でも、それまでは里子さんの受け入れは短い期間だけで、長期の受け入れは私が初めてだったそうです。だから、すごく経験が豊富な里親さんというよりも、里親さんご自身もいっしょに考えながら私と暮らしていたと思います。

大学、そして東京へ

――留学後に、大学に進学したのですか。
 国際系の学部でドイツ専攻なのですが、児童文学を学んでいました。児童文学と西洋哲学がリンクしているので、西洋哲学の講義も受けていたし、心理学の講義も受けていました。
 里親との関係についてとか、自分の生きてきた道とかは考えました。ずっと自分のことは、あんまり好きじゃないなって思っていたけれども、大学生になるぐらいのころには、自分は恵まれているなっていう気持ちが、すごく強くなりました。
 みんな、母1人、父1人とか、なのに、私には家族がいっぱいいます。私の母にしかできない役割が、里親さん2人にしかできない役割が、私にとってありました。そういうのは他の人にはないものだから、特別だな、ありがたいなって思っていました。
――その後、東京に行くことになったのでしょうか?
 私が18歳になって、もう里子としての措置が外れたので、私のいた里親家庭には子どもがいないという状態でした。だから、また新しい子どもが措置されました。四姉妹のうちの上3人で、下1人はまだ赤ちゃんなので、乳児院にいました。でも、そのみんなを受け入れられるようにと、私の里親は、里親家庭ではなくて、グループホーム(その後、ファミリーホームになりました)を立ち上げたのです。
 私が大学生のときでした。幼稚園の仕事をしながら、グループホームの仕事もするという大変な状況でした。
 そのようななかで、私は自分のことは自分でできるようになったけれど、いまだ、いろいろな負担を里親にかけているから、早く楽にさせてあげたいというか、お荷物を1個でも減らしてあげたいと思っていました。そして、大学卒業後、東京での就職が決まり、経済的にも自立して、家を出ていくことができて、里親たちにとっても一つ手が離れて嬉しいことだろうと思いました。今までありがとうっていう気持ちと、もう迷惑かけないから、自由に生きてねっていう気持ちでした。
 だから、もうここには帰ってこないだろうなと思いながら東京に向けて出発しました。

再び、里親さんのところへ

――でも、その後、ここに帰ってきたっていうのはさっきおっしゃった、子どもを育てるならば、ここかなということからですか?
 じつは就職して東京に行っても、ほぼ毎日里親さんからメールが来るんですよ。どうしているとか、こっちは今日は雨だったから、明日明後日あたり東京も雨かなとか、忙しいのに毎日連絡が来ました。そして、困っていませんか、お金足りていますか、ということも。私は週末にまとめて返事をしていたんですけれど。
 だから、関係が途切れるっていうことは本当にまったくありませんでした。そして正月になったから、帰ってきなさいとか言うんですよね。お邪魔しますって言って帰って、ファミリーホームの子どもたちと過ごしたりしました。
――結婚を機に、こちらに戻られたのですね。
 結婚式は、ここ(教会)で行いました。結婚式はしないつもりでしたが、里親のために結婚式をしようと思いました。だから、本当に手作りの結婚式。お互いの家族だけでしました。私は赤ちゃんのころの写真とかないから、そういう小さいころの写真を見るといったものも全然なくて、ただ里親と教会のバージンロードを歩きました。

――結婚式を通じて、思ったことはありますか?
 そのときもやっぱり、私たちって家族だなと思いました。中三のころに言われた通り、里親と里子ではなくなっても人間として家族なんだなって。
 でも、今思うのは、金銭的な負担とかはかけたくないと。なんだろう、ほかの家族がどうかは知らないけれど、家族ではあるけれど、ちゃんとわきまえた、大人どうしの関係でありたいなと思っています。
 あとお姉ちゃんは、今は関西に家族とともに暮らしていますけれども、お姉ちゃんが里親さんの子どもであるっていうことを尊重して、でしゃばりすぎないようにしています。でも、お姉ちゃんは、「自分は関西にいて、そばにいてあげられないから、よろしくね。いつもごめんね、ありがとう」と言ってくれます。素敵な関係です。

自分が里親に

――そこから、ご自身が里親になることは、どのようにつながっていったのですか?
 長女が幼稚園生で、次女はまだ幼稚園に行ってないぐらいのときのことです。幼稚園で家族の話をして、何人家族なのと長女が聞かれたときに、「すごいいっぱい」と言ったらしいんですよ。お父さん、お母さん、妹だけじゃなくて、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お姉ちゃんとかって。それを幼稚園の先生が教えてくれて、私はとても嬉しかったです。でも、それは当然で、この環境で育っていて、こっからこっちが家族で、こっからこっちは家族じゃないとか思わんよねと。娘はいまの家族を普通だと思っているのです。
 じゃあ、子どもを迎えるなら、これが普通と思えるときだと思ったんですよね。長女はいま、小学校の高学年です。うちは里親をしてるから、たまに家族増えるけど、たまに元に戻るって、友だちにもきちんと話しています。「この子は今大人の手が足りてないから、うちにきている」とか、「子どもが暮らす家なんだ」みたいな感じで説明しているのです。
――柿本さんとして、いま、さらに始めたいことは、ありますか?
 私は20歳のころぐらいから、人の前で自分の体験を話す機会がありました。そのときに言っていたのは、里親家庭で暮らした子どもが大学に行きたいと思い、その力がある場合は、18歳より先も継続して支援ができる仕組みがあるといいのでは、ということでした。それは、実際にそうなりました。
 その後に言い始めたのは、いざ、一人で暮らすときに直面する困りごとでした。私が一番困ったのが家の契約とかカーテンや家電を買うときでした。自分の身分を保証する人が血縁にいないし、そもそもまとまったお金が必要だけど、それもない。その部分で社会が変わるといいなっていうのを、お話していたのですね。そうしたら、里親でも保証人になることができるようになりました。あとは巣立ちのための資金が出るようにもなりました。
 その反面、進学をしないと里親のところで暮らせない状況は変えたいと思っています。16歳や18歳で就職して一人暮らしをするのは、だれでも大変です。進学ではなく、就職しても一定の期間、例えば22歳までならば、働きながら、もといた里親家庭で暮らしてもいいというような仕組みになればいいのではと思います。
 あと、私がほそぼそとやっている活動があります。
 まずは学習塾をやっています。もともとはファミリーホームの子どもたちが学校での勉強がうまくいかなくて、それで学校生活が嫌になるっていうようなことがありました。でも、勉強でちょっとつまずいたからといって、友だち関係も良好なのに、学校全体が嫌になるのはもったいないなと思いました。だから、少しサポートすることで、問題がなくなるのだったら、助けになりたいなと思って、学習塾をファミリーホームの子どもたちのために始めました。それが徐々に地域の方にも広がっていって、いまは、地域の人のための個別指導塾をやっています。
――編み物教室もされていますね。
 自分の子どもが生まれてからわかったのは、自信満々で子育てしている人はいないということです。子どもが生まれた瞬間から、子どもを虐待しようと思う人はいなくて、いろんな不都合が重なり合って、不幸なことが起きていたりしています。それはみんなが助け合えば、なんとかなることも多いし、自分には仲間がいるっていうことそのものが、その母親の力になるということを実感しています。
 けれども、お悩み相談というような言葉がついていると、相談に来るハードルは高いです。それに、悩んでないところに本当は悩みがあったりします。だから、何か理由をつけて集まれるようにと、編み物教室をしています。ただ靴下を編んでおしゃべりをしながら、細々と母親たちも母親ではない大人もまじえてガス抜きをしあえるような会をしています。
 そこで編んだ靴下は販売もしていて、その売上金がファミリーホームの子どもたちが巣立つときの資金に充てられています。
 なお、私自身、子どもを持つことが本当は怖かったです。今は強い気持ちで生きているけれども、自分にはどうしようもないことが目の前で起きたときに1番簡単な手段は暴力だっていうことを自分が知っているからです。その手段を使わないでいられるかどうか、自分を信用できませんでした。
 それが、子どもを持つことは怖いことだって考えていた理由の一つです。でも、それはそうじゃないっていうふうに思えるようになりました。なぜなら、私は1人じゃないから。1人だったら、孤独だったら、多分暴力に頼るかもしれません。
 子どもを育てるにあたって、暴力が心配な存在だということは、他の人にも話しています。それに対して、例えば里親さんなどからは「うん。そうなんだねって、そうなんだね」と言われました。否定されることはなくて、むしろ、「あ、そうなんだね。うん、なんかそう考えているんだねって。あー、そういう怖さがあなたにあるんだね」って。むしろあるがままを受け止め、その気持ちそのものが悪いことではないっていうふうに認めてもらえました。だから、自分のこの気持ちを隠さずに済んだかなと思います。
――最後に里親さん、そして、これから里親さんになる人、なりたいと思っている人に、かける言葉をお願いします。
 里親さんになって、里子を迎え入れるときですが、里子になるその子は自分で選んで里子になっていなくて、自分で選べる子もいますが、この家に行きたいと思って来ているわけではありません。仕方なく来ていますので、それを前提に、子どもとのお付き合いを始めてください。
 里親家庭に来なくてはいけなかった状況が、その子の環境にはあり、それもその子だと思って、その子だけじゃなくて、その背景にあるすべてを丸ごといっしょに抱きしめてください。それが、その子とあなたの信頼関係の第一歩だと思います。
――今日は、長い時間にわたって、貴重なお話をうかがわせていただきまして、ありがとうございました。

聞き手 坂本純子